25日間西チベット一周・チャンタン高原とカイラス巡礼

2015年9月26日から10月20日までラサから北回りでアリまで、帰りは南回りでラサまで旅した記録です

シガツェ/日喀則まで


チベット第二の都市シガツェへ向かう、そう遠くない。この辺りから畑が増えてくる。みんなで農作業。乾かした麦わらを片付けているのだろうか。

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峠をいくつか越えてラツェ/拉孜に到着、だんだん都会になっていく。こじんまりとしたなかなかいい感じの町だ。

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この辺で上海から5000㎞、それを表すものすごく大きな石碑が建っていた、少し大きすぎないか……。中国人は石碑が好きだ、いろんなところに立っている。そしてその前でポーズをとって撮影するのが中国人観光客のお約束。

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2時ごろシガツェ到着まず食事、大きなレストランで中国料理、店員さん達はチベット衣装に身を包み感じよく応対してくれる。そしてタシルンポ寺へと向かう。

ついタルシンボ寺と言ってしまいそうになるタシルンポ寺、あまり期待していなかったがさすが大寺院、歴史の重みみたいなものを感じさせ見物のしがいがある。

お堂の中もいい感じに古くなっている、ここに僧侶が集まり読経をしているところを見てみたいと思う。時間の関係かほとんど僧侶を寺院内で見かけなかった。

パンチョンラマ10世の写真はいっぱいあったが、11世の写真はない。中国側のパンチェンラマはこの寺にいるのだろうか。チベット側が認めた11世も中国側が作った11世もいったいどこにいるんだろう、今いくつになったんだろう。

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ゆっくりと一周ぐるりと見物して宿に戻る、参道にみやげ物屋もたくさんある。チベットの都会という感じ、この町は新しい建物と古い物がちょうどうまく混ざり合っていて、なかなかいい感じだ。

ラサはすっかり中国の近代都市に生まれ変わってしまいおもしろさにかける。楽しいのはパルコル周辺だけ、他は普通の中国の退屈な街並みという感じにますますなっていく。ラサに旅行するなら、旅行社にパルコル周辺にあるホテルをとってもらうように頼むのがベストだと思う。

 
この町を拠点にして、サキャ寺やサムイェ寺などの山南地方を訪ねてみるのもいいかなと考える。遠くに青蔵鉄道の新しい駅が見えた。
 
やっぱり都会に来ると落ち着く。町のはずれまで行って、あの幻の大渓谷のあるヤルンツァンポの上流の写真に撮りたかったなんて考えながら就寝。明日はラサまで行けるだろうか……。

 

 

おまけ4 今回覚えたチベット語

 

五年ほど前チベット語を習ってみようと思い立ち。若い人にまじって一週間ほど集中講義を受けたことがある。

さっそくチベット文化圏の青海省に出かけてチベット人と少し話してみようと思った。しかしアムドもカムも習ったチベット語は通じない。アムドはアムド方言、カムはそれぞれ地域によってちがうらしい。

先生に不満を言ったら、ダラムサラに行けばいくらでも話せますよと言われた。ダラムサラの共通語はチベット語らしい。

そんなわけで習ったものをすべて忘れてしまった。

しかし今回自治区に行けるのだからと必死でテキストを読み返し、簡単な単語帳を作って持って行った。

しかし単語帳を見ながら話したところでまだるこしくて誰も相手にしてくれない、だが今回は親切なロサンがいたおかげで少し使えたし覚えられた、ほんの少し!

習うそばから忘れていく年頃ではあるが、かろうじて少し覚えている。

 

タシデレ・コンガムサン
タシデレは常識、しかしチベタンも漢族と同じであまり挨拶しない。そのため言っても別に表情を変えない人が多い。しかし挨拶なしでは生きていけない日本人としては困る。そこで後ろにコンガムサンとつけるとけっこうニコッとしてくれる。how are you という意味だ。タシデレ コンガムサン、こんちは、調子いい?て感じだろうか。

 

シュパデレ
おはようの意味だ、毎朝顔を合わすロサン達と使っていた。

 

ミンとロ
ミンは名前、名前を聞きたいとき、ケラン(あなた)・ギ(の)・ミンで通じた。本当は後ろにカレレ(何ですか)を付けるのだが。ロは年、ケラン・ギ・ロで年が聞ける。

 

シン・ポ
おいしいという意味、シン・ポ・ドゥ(です)で使える、お店の人が喜ぶ。good はヤン・ポ・ドゥ。まずいはシン・ポ・ミン・ドゥ。良くないはヤン・ポ・ミン・ドゥ。

 

ロ・パ
友達とか仲間。仲良くなったら肩組んで言う、ガ・ツォオ・ロ・パ(僕らは友達)。

 

プ・モ
プ・クは子ども、モは女で、プ・モは女の子だが。

ある日の夕食時三人が来なかった、ほねやすみにカラオケに行ったらしい。中国のカラオケはボックスではなく一人に一人ずつおねえさんが付いてくれ、飲んだり歌ったりするとこらしい。

次の日チュンペイ達が、プ・モ、プ・モと言ってニタニタしている、そして私の方を見て、お前もプ・モが好きだろうと言って笑っていた。どうやらチュンペイ達にはプ・モはかわいいねえちゃんを意味する言葉らしい。

昨日は相当いいことがあったのだろうか!?

 

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シシャパンマBC経由定日/ティンリー


今日は山を見にゆく二つ。一つ目はシシャパンマ、昨日の街道へは行かず南に入る、この道はシガツェ・カトマンズ間の交易の道、中尼公路へと続いている。

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遠くにヒマラヤ山脈が見える。その手前に小高い丘が連なっている、BCに近づいてきた、丘を迂回してその裏に出ないとBCには行けない、街道から集落に向かう細い道を行き途中からかすかな車の通った跡を頼りに走る。

ぐるっと回ってベースキャンプが見えてきた。BCとは言っても回り込んだ横の平地だ。それとわかるのは高い看板が立っていたせいだ。

そこには「大本営」と書いてあった、一瞬ドキッとする、戦争するのではなくここから8000m級の山に挑むのだと考えれば納得の中国語だ。

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二つともシシャパンマ、この日は雲が多すぎて全体がわからない。


シシャパンマは8012m、地球上にある8000級の山は全部で14座、その中では一番低いが、山全体が中国領内にあるのはここだけ、あとはみなネパールやパキスタンなどにまたがっていたりネパール領内にある。

そして14座のうち一番最後に初登頂されたらしい、それにしてはあまり厳しそうな山には見えない。事実登頂は他の山に比べやさしいらしく、たくさん成功していると言っていた、ウリさんが。

山をただ観光がてら見物している私にはあまり美しい峰には見えなかった。

 

 

車を降りそれぞれ好きな方向に散っていく。ウリさんは迂回してきた後ろの丘に登り、Kさんは遠くにいる遊牧民の元へ、二人とも美しい写真をものにしようとはりきっている、残りはそんな意欲もなくそこらをブラブラ。

ブラブラするしかないのだ、シシャパンマのふもとまで一面平原でほかにはなにもないのだから。

 

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この橋を渡って挑戦。ここから登頂するにはふもとに着くまでずいぶん遠く思えるけど、たぶん後ろの丘が嵐でもあったときに防いでくれるからだろう。

人の歩く速さというのが意外と速いということを発見してしまった。ふと気がつくとKさんが遊牧民の元にたどり着いていたのだあっという間に。日本では遠くまで人が行くのを見ることはむずかしいがここならわかる。

 

撮影も終わり、今日もお菓子中心の昼飯をすます。そして広い道に戻って二つ目のエベレストBCへ…のはずがいつの間にか行かないことになっていた。なぜなら他の四人はみんな行ったことがあるのだ、そして二度も行きたい所ではないらしい。

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行ったことのない私をきのどくに思ってか、遠くエベレストの見える所に行ってくれた。しかし山頂あたりはいやに雲が多い日ではっきりとしたエベレストを見ることはできなかった。青い山の上の雲の中がエベレスト。

 

しかし走る途中窓から雲のきれたエベレストがはっきり見えた、写真で見ているあの形どおりだった、あたりまえだけど。

 

今回の旅行で一番の写真、この辺りで見た。ほんの一瞬だけこの形になった。

おむすびの形!

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この辺りには遊牧民がたくさんいる。

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そして今日の宿泊地、定日に向かった、もしかすると宿泊は定日ではなく新定日だったかもしれない。

 

 


おまけ3  チベタンはロマンチスト⁈

ある日の夕食時、ウリさんがイ族に伝わる面白い昔ばなしをしてくれた。寓話というのだろうか少し修飾して書いてみた。


『  むかしむかしあるところに、漢族、蔵族、イ族という名の三人の兄弟が住んでいました。

ある日、父である王様は立派な男として成長した三人を見て、領土を与えそれぞれ国を統治させることにしました。

そしてこの広大な東アジアの大地から好きな所を取れと三人に伝えました。

まずはじめは長男です、よくばりで自己チューの漢族は統治もしやすく生産能力の高い広い平地を全部取ってしまいました。

しかし弟二人は長男に文句は言えません。そこで二男の蔵族は便利な平地ではなく、高地を選びました。生活は楽ではなくとも一年中雪に覆われた美しい峰々を見て暮らそうというのです。

弟のイ族はさすがロマンチストの蔵族にふさわしい選択だと感心しました。

しかし自分にはもう南の奥まった小さな山々に囲まれ、平地の少ない場所しかありませんでした、しかし文句も言えずイ族はそこを受け入れたのでした。

めでたしめでたし。』



どこがめたいのだ!  イ族の子孫から声が上がるのは当然です。これは狭い土地に暮らすイ族の子孫を慰めるための話でしょうか、しかしこれでは誰だって納得できません。そこで、

 

おまけのおまけ  イ (彝) 族はすごい‼︎

 
20年近く前「三星堆遺跡展」という、紀元前2000年くらい前の遺跡が成都付近で見つかりそこから出土した青銅器を中心とした展覧会があった。
 
現代美術のような今まで見たこともない装飾の仮面や人物像などが展示され、NHKがドキュメンタリーを放送したためそれにのせられかなり話題になった。
 
私の場合もすぐのせられる口で、なんと一人ノコノコ成都からバスを乗り継ぎ広漢市にある博物館まで行ってしまったのだった。
 
しかし日ごろの行いの悪い私が昼ごろ博物館に着くと、その日に限り午前で閉館になってしまった。仕事を終え帰宅しようと博物館から出てきた職員のお姉さんになぐさめられまたトボトボと成都へと戻ったのだった。
 
そんな事はどうでもいい。この黄河文明に匹敵すると言われる三星堆文明こそイ族が残した文明なのだ。しかしネットで検索してもイ族と三星堆遺跡の関係はどこにも書かれていない、なぜだろう。
 
しかし私は確かな証拠を握っている。ウリさんの切れ長の目は遺跡から出土した仮面類の目とまったく同じなのだ。いい写真を持っていないので公開できないのが残念だ。 

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4000年以上の間しっかりイ族のDNAに保存されている。
 
ついでにウリさんによるとイ族の男の仕事は戦争らしい。それでチベット近辺では強い男はカンパとイ族ということになっているのだ。そのせいかウリさんにその切れ長の目で見つめられると、正直こわい!
 
 
BCに流れていた小川。 

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間歇泉をさがしに

 
旅行前の打ち合わせでウリさんが一枚の写真を見せた、温泉が吹き出ている穴のようだがとても迫力があり美しい。全体がどうなっているのか知りたい、素晴らしい風景が見られそうだ。

ここに行くんですか。もし時間が余れば。ぜひ行きましょう。みんなの意見は一致していた。

そして今日その間歇泉のある温泉へと向かう。今までの工程でかせいだ二日間のうちの一日を使って。

サガから少し東に走り左折して北に向かう、きれいに舗装された道だ。あまり人のいかない美しい自然の中かと思っていたが、思ったよりひらけている。このままこの道を行くとチャンタン高原の改則手前のトンツォまで続いている。

道の先に蒸気が上がるのが見えるおもしろそうだ、到着までそう時間はかからなかった。途中の看板には「達格架噴泉」と書いてあった。

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真ん中にけっこう迫力がある大きな川が流れている。いたるところから蒸気が上がっている。湯につかったらしき壊れた小屋がいくつかあった。昔はもっと温泉が湧き出ていたのかもしれない。

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温泉のずいぶんはずれに5、6部屋ある宿泊できそうな家があった。温泉としても使われているのだろうか。温泉につかるチベタンの写真は見たことないので、きっと足湯でもするのだろうか。

足湯のできそうな場所があったので靴を脱いで浸ってみた、意外に気持ちがよかった。宿に帰りバスタブにお湯を少し張り足をつけてみたが気持ちよくなかった、温泉は効いているのかもしれない。なんだか足の疲れが取れた。
 

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残念ながら期待は裏切られた、規模が小さい。写真にはよく裏切られる、美しいところだけを切り取って掲載されているせいだ。
 

少し先にある湖に行き、朝買ってきた包子とお菓子で昼飯にした。

 
今日はこれだけ、2時ごろ宿に戻る。町を散歩するがあまりおもしろそうなところがない、茶館に入ってチャガモを飲みながら旅の記録を書いた。

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サガは町を作り替えている途中という感じだ。

毎日の食事はついた町の通りを歩きながらウリさんが探す、長年の勘を頼りに、そしてその勘は外れたことがまずなかった。そしてサガの食堂もとてもよかった。

見た目は普通の食堂だが、三つある大きなテーブルは一組が帰るとすぐにうまり、空いたことがなかった。帰るとき厨房をのぞいてみるとオヤジがうれしそうに私達を見つめていた、二日続けてきた外国人だからね。

オヤジはなかなか立派で料理に自信があるように見えた。若い見習いらしき調理人にも厳しいらしく、バカていねいに野菜を切らされていた。

たまに停電というおもけもついた。東京で暮らしていると停電など遠い昔の話だ、なんだか懐かしく楽しくもある。消えるとすぐにバッテリーにつないで明かりがつき、食事は続けられる。

 
 
 
おまけ2  チベットの食堂の料理

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中国旅行のツアーに参加すると食事は、朝はホテルのバイキング、昼は観光先の食堂で中国料理、夜は高級レストランで中国料理、と決まっている。

中国料理はほとんどが油で処理したものだ、高級な所ばかりならいいのだが、そうでない時は必ずツアーのうち何人かが調子をこわし食事を休む。日本人には少し油が強い。そして味が濃い。

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しかし今回は誰も調子をくずさないどころか食事の時間を楽しみにしていた。特に私は一時的大食いになってしまった。

ニマの湖のほとりでチュンペイにもらった自家製ヤクのチーズ。ものすごい薄味なのだ塩はかすかにしかついていない、別に塩をかけて食べるわけではない、一緒に食べたKさんが薄い薄いと言っていた。

三、四年前、ラサの食堂で食事した時ガイドさんはご飯にヨーグルトをかけてそれだけを当然のように食べていた、何もかけず。それを見た私は一瞬椅子から落ちそうになった。
 
チベットの食堂の料理は塩分が抑えられ油もひつこくないのはなぜだろう。
 
チベタンの食事の主食はツァンパだ。ハダカムギの粉をバター茶でこねてそのまま食べる。二度ほど食べたが麦こがしのような匂いがするがほとんど味がない、決してうまいものではない日本人には。

何百年も続く食の好みはそうは変わらないということだろう。

チベットの食堂の料理は四川料理が中心だから四川省から出稼ぎに来たコックが作っていると思う。それでも薄味、とうぜん客が薄味を好むならそうならざるをえない。チベットの料理は薄味なのだ!

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涼粉
夏の中国の街角でよく見かける屋台料理だ、鉄板の上で好みの味付けに麺を和えてくれる、美味しそうでいつも食べようかと思うが夏の冷たい料理のため火にかけてない、あぶないのでいつもあきらめる。

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しかしラサのレストランで出てきた、やっと安心して食べられたが別に美味しくはなかった、がっかり。やっぱり屋台で食べるものらしい。麺は緑豆の粉で作られている。

ニンニクの葉

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ニラのように見えるがニンニクの葉だ、中国ではよく使われるらしい、肉によく合うしくせもないし、なぜ日本では使わないのだろう。

ドクダミのサラダ
バイキング形式の食堂で新鮮な緑のサラダを取って食べてみたらきつい味がする。ドクダミよとHさんに言われた、うわさには聞いていたがこれか。もう一度取ってきてついでに写真に撮って味わおうと思ったらからになっていた。けっこううまい。今度家で初夏になったら試してみよう。