25日間西チベット一周・チャンタン高原とカイラス巡礼

2015年9月26日から10月20日までラサから北回りでアリまで、帰りは南回りでラサまで旅した記録です

シシャパンマBC経由定日/ティンリー


今日は山を見にゆく二つ。一つ目はシシャパンマ、昨日の街道へは行かず南に入る、この道はシガツェ・カトマンズ間の交易の道、中尼公路へと続いている。

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遠くにヒマラヤ山脈が見える。その手前に小高い丘が連なっている、BCに近づいてきた、丘を迂回してその裏に出ないとBCには行けない、街道から集落に向かう細い道を行き途中からかすかな車の通った跡を頼りに走る。

ぐるっと回ってベースキャンプが見えてきた。BCとは言っても回り込んだ横の平地だ。それとわかるのは高い看板が立っていたせいだ。

そこには「大本営」と書いてあった、一瞬ドキッとする、戦争するのではなくここから8000m級の山に挑むのだと考えれば納得の中国語だ。

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二つともシシャパンマ、この日は雲が多すぎて全体がわからない。


シシャパンマは8012m、地球上にある8000級の山は全部で14座、その中では一番低いが、山全体が中国領内にあるのはここだけ、あとはみなネパールやパキスタンなどにまたがっていたりネパール領内にある。

そして14座のうち一番最後に初登頂されたらしい、それにしてはあまり厳しそうな山には見えない。事実登頂は他の山に比べやさしいらしく、たくさん成功していると言っていた、ウリさんが。

山をただ観光がてら見物している私にはあまり美しい峰には見えなかった。

 

 

車を降りそれぞれ好きな方向に散っていく。ウリさんは迂回してきた後ろの丘に登り、Kさんは遠くにいる遊牧民の元へ、二人とも美しい写真をものにしようとはりきっている、残りはそんな意欲もなくそこらをブラブラ。

ブラブラするしかないのだ、シシャパンマのふもとまで一面平原でほかにはなにもないのだから。

 

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この橋を渡って挑戦。ここから登頂するにはふもとに着くまでずいぶん遠く思えるけど、たぶん後ろの丘が嵐でもあったときに防いでくれるからだろう。

人の歩く速さというのが意外と速いということを発見してしまった。ふと気がつくとKさんが遊牧民の元にたどり着いていたのだあっという間に。日本では遠くまで人が行くのを見ることはむずかしいがここならわかる。

 

撮影も終わり、今日もお菓子中心の昼飯をすます。そして広い道に戻って二つ目のエベレストBCへ…のはずがいつの間にか行かないことになっていた。なぜなら他の四人はみんな行ったことがあるのだ、そして二度も行きたい所ではないらしい。

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行ったことのない私をきのどくに思ってか、遠くエベレストの見える所に行ってくれた。しかし山頂あたりはいやに雲が多い日ではっきりとしたエベレストを見ることはできなかった。青い山の上の雲の中がエベレスト。

 

しかし走る途中窓から雲のきれたエベレストがはっきり見えた、写真で見ているあの形どおりだった、あたりまえだけど。

 

今回の旅行で一番の写真、この辺りで見た。ほんの一瞬だけこの形になった。

おむすびの形!

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この辺りには遊牧民がたくさんいる。

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そして今日の宿泊地、定日に向かった、もしかすると宿泊は定日ではなく新定日だったかもしれない。

 

 


おまけ3  チベタンはロマンチスト⁈

ある日の夕食時、ウリさんがイ族に伝わる面白い昔ばなしをしてくれた。寓話というのだろうか少し修飾して書いてみた。


『  むかしむかしあるところに、漢族、蔵族、イ族という名の三人の兄弟が住んでいました。

ある日、父である王様は立派な男として成長した三人を見て、領土を与えそれぞれ国を統治させることにしました。

そしてこの広大な東アジアの大地から好きな所を取れと三人に伝えました。

まずはじめは長男です、よくばりで自己チューの漢族は統治もしやすく生産能力の高い広い平地を全部取ってしまいました。

しかし弟二人は長男に文句は言えません。そこで二男の蔵族は便利な平地ではなく、高地を選びました。生活は楽ではなくとも一年中雪に覆われた美しい峰々を見て暮らそうというのです。

弟のイ族はさすがロマンチストの蔵族にふさわしい選択だと感心しました。

しかし自分にはもう南の奥まった小さな山々に囲まれ、平地の少ない場所しかありませんでした、しかし文句も言えずイ族はそこを受け入れたのでした。

めでたしめでたし。』



どこがめたいのだ!  イ族の子孫から声が上がるのは当然です。これは狭い土地に暮らすイ族の子孫を慰めるための話でしょうか、しかしこれでは誰だって納得できません。そこで、

 

おまけのおまけ  イ (彝) 族はすごい‼︎

 
20年近く前「三星堆遺跡展」という、紀元前2000年くらい前の遺跡が成都付近で見つかりそこから出土した青銅器を中心とした展覧会があった。
 
現代美術のような今まで見たこともない装飾の仮面や人物像などが展示され、NHKがドキュメンタリーを放送したためそれにのせられかなり話題になった。
 
私の場合もすぐのせられる口で、なんと一人ノコノコ成都からバスを乗り継ぎ広漢市にある博物館まで行ってしまったのだった。
 
しかし日ごろの行いの悪い私が昼ごろ博物館に着くと、その日に限り午前で閉館になってしまった。仕事を終え帰宅しようと博物館から出てきた職員のお姉さんになぐさめられまたトボトボと成都へと戻ったのだった。
 
そんな事はどうでもいい。この黄河文明に匹敵すると言われる三星堆文明こそイ族が残した文明なのだ。しかしネットで検索してもイ族と三星堆遺跡の関係はどこにも書かれていない、なぜだろう。
 
しかし私は確かな証拠を握っている。ウリさんの切れ長の目は遺跡から出土した仮面類の目とまったく同じなのだ。いい写真を持っていないので公開できないのが残念だ。 

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4000年以上の間しっかりイ族のDNAに保存されている。
 
ついでにウリさんによるとイ族の男の仕事は戦争らしい。それでチベット近辺では強い男はカンパとイ族ということになっているのだ。そのせいかウリさんにその切れ長の目で見つめられると、正直こわい!
 
 
BCに流れていた小川。 

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